2018年3月、東京都目黒区で5歳の船戸結愛ちゃんが養父と実母からの壮絶な虐待の末に命を落とした『目黒女児虐待事件』。結愛ちゃんがノートに残した「もうおねがいゆるして ゆるしてください おねがいします」という幼い叫びは、日本中に深い衝撃と悲しみ、そして怒りをもたらしました。
この事件は、家庭内の暴力や“しつけ”と称した虐待、DVと児童虐待の連鎖、そして児童相談所や社会の支援体制の限界を浮き彫りにし、児童虐待防止法改正や体罰禁止条例制定など、社会制度の見直しを促すきっかけとなりました。
事件の真相と母親の苦悩、そして「なぜ娘を守れなかったのか」という問いに向き合ったのが、実母・船戸優里による獄中手記『結愛へ 目黒区虐待死事件 母の獄中手記』です。本書は、加害者であり被害者でもあった母親の視点から、家庭崩壊の過程やDVの恐怖、そして社会に向けた切実なメッセージを赤裸々に綴っています。
この記事では、結愛ちゃんがたどった過酷な日々と事件の背景、そして本書が社会に投げかける重い問いについて、詳しく解説します。
【目黒女児虐待事件】の詳細

『目黒女児虐待事件』は、2018年3月に東京都目黒区で発覚した、5歳の女児が養父と実母からの虐待により亡くなった痛ましい事件です。被害者の船戸結愛ちゃんは、当時5歳で、実母の優里被告と養父の雄大被告のもとで生活していました。優里被告はシングルマザーで、2015年11月頃から元夫である雄大被告と同居を始め、2016年4月に結婚し、雄大被告が結愛ちゃんを養女にしました。
結婚当初は雄大被告は優しい面もありましたが、次第に態度が変わり、結愛ちゃんに対する暴力や厳しいしつけがエスカレートしていきました。特に2018年1月以降、結愛ちゃんへの食事制限や身体的な暴力が激しくなり、冷水シャワーを浴びせたり、顔面を拳で殴るなどの虐待が繰り返されました。結愛ちゃんは栄養失調に陥り、体重は16.6キロから大幅に減少しましたが、嘔吐や意識障害があっても病院に連れて行かれることはありませんでした。雄大被告は「理想の子に育てる」と称し、以下のような過酷なルールを結愛ちゃんに強要していました。
・炭水化物やタンパク質を抜き、バナナ1本とコーヒー1杯のみ与える日も。体重を毎日計測し、12キロ台になると「やばい」と焦りながらも食事量を増やさず、死亡3日前には衰弱で嘔吐する状態に。
・毎朝4時に目覚ましを鳴らして自力で起床させ、ひらがなの練習や九九の暗記を強制。目標未達成時は顔を殴る、お腹を蹴るなどの体罰が加えられました。
・家族が外出する際は「言うことを聞かなかった罰」として6畳の部屋に一人で閉じ込められ、東京転居後39日間で大家へのあいさつとゴミ出し以外、外出禁止。部屋には電灯がなく、窓の明かりでノートに文字を書いていました。
・壁には「うそをついたら×」「はをみがいたら〇」などの張り紙が貼られ、反省文の作成を強要。結愛ちゃんは「ほんとうにもうおなじことはしません」とノートに何度も綴りました。
・雄大被告は「太った女は醜い」と常々発言し、結愛ちゃんに「モデルになれる体型」を求めて痩せさせることを優先。免疫力低下による肺炎のリスクを無視しました。
2018年3月2日、結愛ちゃんは自宅で肺炎による敗血症で亡くなりました。遺体には170箇所ものあざや傷があり、虐待の深刻さを物語っていました。事件が明るみに出ると、結愛ちゃんが書いた「もうおねがいゆるして ゆるしてください おねがいします」という心の叫びが報道され、多くの人々の胸を打ちました。

このノートには、「ママ もうパパとママにいわれなくても しっかりとじぶんから きょうよりかもっと あしたはできるようにするから」「もうおねがいゆるして ゆるしてください おねがいします」「ほんとうにもうおなじことはしません ゆるして」「ぜったいやくそくします」など、何度も許しを請う言葉や自分を責める言葉が並びます。5歳の子どもが親に愛されたい、認められたい一心で自分を責め、必死に「いい子」になろうとしていたことが痛いほど伝わってきます。
背景には、雄大被告による母親へのドメスティック・バイオレンス(DV)があり、優里被告は精神的に支配されていたために虐待を止められなかったとされています。また、児童相談所や警察の対応にも課題があり、母親がDV被害者である認識が薄かったことや、一時的に子どもが保護されたにもかかわらず虐待が続いたことが問題視されました。

裁判では、養父・船戸雄大被告に対し東京地裁の裁判員裁判で懲役13年の判決が言い渡されました。判決理由では、「虐待はしつけではないことを自覚しながらやめられなかった」と裁判長が厳しく指摘し、雄大被告が結愛ちゃんに対し、明るく友達の多い理想の子であってほしいと過剰な期待をかけ、食事制限や暴力をエスカレートさせた経緯が詳細に認定されました。検察側は「命を守るための最小限の行動すら取らなかった」と非難し、弁護側は「父親として苦しみや葛藤があった」と主張しましたが、裁判所は「助けるためなら心理的影響を乗り越えることはできた」と述べ、厳しい量刑判断となりました。
実母・船戸優里被告も保護責任者遺棄致死罪で起訴され、一審で懲役8年の判決を受けました。優里被告は控訴しましたが、控訴審でも「DVによる精神的支配の影響は認めるが、結愛ちゃんの衰弱は明らかで、母親として助ける行動を取るべきだった」として控訴棄却となり、懲役8年が確定しています。裁判では、優里被告が雄大被告からの長時間の説教や精神的DVに支配されていたこと、判断力や行動力が著しく低下していたことも明らかにされました。
法廷では、優里被告が証人として出廷した際、動揺して号泣し「死にたい。結愛のところに行きたい。どうやって罪を償えばいいか分からない」と涙ながらに語る場面もありました。また、専門家証人からは「DVによる心理的支配が母子の絆を壊した」との指摘もなされました。
この事件の裁判を通じて、虐待としつけの境界、DVの影響、親の責任、そして社会の支援体制のあり方が改めて問われることとなりました。
船戸雄大の生い立ち

船戸雄大(ふなと ゆうだい)は1985年岡山県生まれで、父親の仕事の関係で関東など各地を転々とし、小学校高学年で北海道札幌市に転居しました。中学時代はバスケットボール部に所属し、運動神経が良く、周囲からは明るく面倒見の良い好青年という印象を持たれていました。しかし、高校ではバスケ部の厳しい練習についていけず退部し、その後は不良グループと付き合うようになった時期もありましたが、無事に卒業しています。
高校卒業後は東京・八王子の帝京大学に進学し、バスケサークルの中心的存在として青春時代を過ごしました。大学卒業後は大手通信会社に就職し、システム開発関連の仕事を担当。しかし、札幌への転勤後は毎朝嘔吐しながら通勤するなど、精神的に追い詰められ、最終的には退職。札幌の繁華街「すすきの」で働いた後、香川県高松市のキャバクラでボーイとして勤務するようになります。
香川で働いていた際に、シングルマザーだった船戸優里と出会い、2015年末から交際を始め、2016年4月に結婚。雄大は「物知りで頼りになる」「家事や育児もできる」と周囲に評され、結婚当初は結愛ちゃんや優里にとって理想的な父親像を目指していたといわれます。実際、結婚当初は結愛ちゃんと仲良く遊び、家族でテーマパークに出かけるなど、周囲からも「子どもを大事にするタイプ」と見られていました。
しかし、雄大は自分の思い描いた「理想の家庭」や「理想の子ども」への執着が強く、次第に結愛ちゃんへのしつけや教育が過剰になっていきます。顔が可愛いからモデルにしたいと考え、痩せるように食事制限を課し、朝4時に起こして九九やひらがなの練習、目標が達成できないと食事を抜いたり体罰を与えるようになりました。自作のチャートで「痩せるのは〇、太るのは×、すごろくの上がりはモデルになってイケメンの旦那さんに出会える」など、独自のルールを押し付けていたことも明らかになっています。
また、本人は「自分のように辛い思いをさせたくない」「幸せになってほしい」という思いから厳しいしつけをしていたと語っていますが、実際には理不尽な暴力や食事制限、監禁に近い生活を強いていました。背景には、雄大自身の家庭環境(両親の不仲)や、学生時代・社会人時代の挫折、自己肯定感の低さ、プライドの高さといった心理的要素が指摘されています。
結局、家庭内で孤立し、行政や他者に助けを求めることもできず、過剰な責任感と理想像への執着が暴力と虐待へと転化しました。事件後の裁判では「理想的な家庭を作りたかった」「自分の思い通りにならずどうしていいか分からなくなった」と述べています。
船戸優里の生い立ち

船戸優里は、自己肯定感が低く、自分に自信が持てない性格で育ちました。彼女の生い立ちは、幼少期から「自分はバカだ」「誰かに必要とされたい」という思いに強くとらわれていたことが特徴的です。19歳で最初の夫と結婚し、その年に長女・結愛ちゃんを出産しますが、夫は家事や育児に無関心で、優里に対して日常的に「お前はバカだ」「なんでそんなこともできないの?」などと否定的な言葉を投げかけていました。夫婦関係は冷え切り、最終的に離婚。離婚後も元夫は養育費を払わず、逆に金銭をせびりに来ることもありました。
シングルマザーとなった優里は、生活のためにキャバクラで働き始めます。その頃、「自分がたくさん稼いで、性的にも上手になれば元夫が戻ってくるかもしれない」と思い詰めるなど、自己価値を他者の評価や男性からの承認に強く依存していた様子がうかがえます。キャバクラで働いていた際に8歳年上の船戸雄大と出会い、2015年11月ごろから同居を始め、2016年4月に結婚。雄大との間に長男も授かり、結愛ちゃんは雄大の養女となりました。
再婚後、雄大によるDVや過干渉が始まり、優里は精神的に強く支配されるようになります。雄大の「しつけ」は次第にエスカレートし、結愛ちゃんへの虐待が常態化。優里も育児や家事についてたびたび叱責され、次第に抵抗できない状態に追い込まれていきました。事件当時、優里は虐待を止められず、結愛ちゃんが衰弱しても病院に連れて行かなかったことが問われ、保護責任者遺棄致死罪で懲役8年の判決を受けています。
事件後に出版された獄中手記『結愛へ 目黒虐待死事件 母の獄中手記』では、DVの恐怖や自責の念、そしてなぜ娘を守れなかったのかという苦悩が赤裸々に綴られています。船戸優里の生い立ちや心理的背景は、児童虐待や家庭内暴力の構造的問題を考える上でも、現代社会に重い問いを投げかけています。
【結愛へ 目黒区虐待死事件 母の獄中手記】船戸優里

『結愛へ 目黒区虐待死事件 母の獄中手記』は、2018年3月に東京都目黒区で5歳の船戸結愛ちゃんが虐待の末に命を落とした事件を、母親・船戸優里が獄中で綴った手記です。本書は、母親自身が保護責任者遺棄致死罪で懲役8年の実刑判決を受け、刑務所で自分の罪と向き合いながら、なぜ娘の命を守れなかったのか、なぜ夫の暴力を止められなかったのか、なぜ誰にも助けを求めなかったのか――その苦悩と後悔、そして絶望を率直に記録しています。
手記では、夫からの執拗な精神的・身体的DVにより心がすり減り、しつけという名の虐待が日常化していった家庭の崩壊の過程が描かれています。たとえば、「私は正座しながら説教を受け、それが終わると『怒ってくれてありがとう』と言うようになった」「結愛が床に寝転がっていたとき、彼が横から思い切りお腹を蹴り上げた」など、家庭内での支配と恐怖、そして自分自身が“まともな人間ではない”“マイナス100の人間だ”と自己否定に陥っていく様子が赤裸々に語られています。
また、結愛ちゃんがノートに書き残した痛ましい叫びや、やせ衰えた娘を病院に連れて行けなかった理由、過酷な日課や反省文の強要など、事件の背景にあった複雑な家庭環境とDVの実態も詳細につづられています。母親としての責任と、DV被害者としての苦しみ、その両面から「なぜ自分は娘を救えなかったのか」と自問し続ける姿が、読む者に深い問いを投げかけます。
巻末には、ルポライター杉山春氏による解説「見えないDVと届かないSOS」や、精神科医・白川美也子氏による診断書(意見書)も収録され、児童虐待とDVが密接に絡み合う現実と、支援の難しさ、そして再発防止への課題が指摘されています。
本書は、加害者であり被害者でもあった母親の視点から、児童虐待事件の真の背景を明らかにし、社会に対して「なぜこの悲劇を防げなかったのか」を強く問いかける記録となっています。
【目黒女児虐待事件】まとめ

『目黒女児虐待事件』は、結愛ちゃんの「もうおねがいゆるして ゆるしてください おねがいします」というノートの言葉が報道されると、社会全体に大きな衝撃と悲しみ、そして怒りが広がりました。SNSやネット上では「なぜ誰も助けられなかったのか」「大人は何をしていたのか」「子どものSOSを見逃してはいけない」といった声が相次ぎ、結愛ちゃんの苦しみや孤独に強く心を痛める意見が目立ちました。
また、「虐待は密室で起きる」「ノートがなければ実態は分からなかった」と、子ども自身による記録が事件の深刻さを伝えたことに言及する声も多く、児童相談所や警察の対応の不十分さ、社会の支援体制の限界に対する批判や反省の声が広がりました。一方で、「親のしつけと虐待の境界線」「DVと虐待の連鎖」「母親も被害者だったのではないか」という複雑な家庭環境への同情や、母親への判決が重すぎるという意見も一部で見られました。
事件をきっかけに、「体罰や暴力は絶対に許されない」「子どもを守るために社会全体で見守るべき」という意識が高まり、東京都では体罰禁止条例が制定されるなど、法改正や制度強化の動きも後押しされました。また、「結愛ちゃんのような子どもを二度と出さないでほしい」「子どもの声にもっと耳を傾けてほしい」といった切実な願いも多く寄せられています。
総じて、目黒女児虐待事件は、メディアが「子どものSOSを社会全体でどう受け止めるか」「虐待死を二度と繰り返さないために何が必要か」を強く問いかける契機となり、児童虐待防止法改正や体罰禁止条例など制度改革の大きな原動力となりました。
本の詳細
■結愛へ 目黒区虐待死事件 母の獄中手記
出版社:小学館 (2020/2/7)
発売日:2020/2/7
言語:日本語
単行本:260ページ
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