2018年3月、東京都目黒区で5歳の女児・船戸結愛ちゃんが、両親による長期間の虐待の末に命を落とした「目黒女児虐待事件」は、日本社会に大きな衝撃を与えました。結愛ちゃんは十分な食事も与えられず、暴力や冷水を浴びせられるなどの過酷な虐待を受けていました。
この事件では、児童相談所や行政の対応の不備も明らかになり、社会全体に児童虐待防止の課題を突きつけました。母親である船戸優里被告は、獄中で娘への思いと事件の経緯を綴った手記『結愛へ 目黒区虐待死事件 母の獄中手記』を発表し、事件の真相や母親としての葛藤、社会への問いかけを世に残しています。この手記は、幼い命を守れなかった社会の責任や、親子の苦しみを改めて考えさせるものとなっています。
【目黒女児虐待事件】の詳細
両親の出会い

結愛ちゃんの実母・船戸優里は、香川県で高校時代の同級生と結婚し、2012年に結愛ちゃんを出産しました。しかし、夫からのDVや家事・育児への非協力、金銭的な問題などで夫婦関係は悪化し、2014年に離婚。シングルマザーとなった優里は生活のためキャバクラで働き始め、その職場で船戸雄大と出会いました。
雄大は「東京の大学卒業」「大手企業勤務」などと自慢話をしており、田舎育ちの優里には都会的で魅力的に映ったといわれています。優里は雄大に一方的に惹かれ、2015年11月ごろから交際・同居を開始し、2016年4月に結婚。雄大は結愛ちゃんの養父となりました。
虐待の詳細

結婚当初は雄大も優しい面を見せていましたが、次第に家庭内での支配を強め、優里に対して長時間の説教を繰り返すようになりました。結愛ちゃんへの「しつけ」もエスカレートし、できないことがあると優里に責任を問い詰めるようになります。例えば、家族で海に行った際に結愛ちゃんが水に顔をつけられなかったことを理由に、優里に「訓練」を命じ、実際に風呂場で結愛ちゃんの頭を押さえつけることもありました。
香川県時代から近隣住民の通報で児童相談所が介入し、2016年12月と2017年3月には一時保護も行われましたが、いずれも短期間で解除され、家庭に戻されていました。2018年1月に家族は東京・目黒区に転居。転居後は、養父による虐待がさらに激化しました。結愛ちゃんは毎朝4時に目覚ましで自力で起き、ひらがなの練習や九九の暗記を強制され、できなければ顔を殴られたりお腹を蹴られたりしました。食事は極端に制限され、バナナ1本とコーヒー1杯だけの日もありました。体重は16.6キロから12キロ台に激減し、死亡直前には衰弱して嘔吐を繰り返していましたが、病院には連れて行かれませんでした。
家族が外出する際は「言うことを聞かなかった罰」として6畳の部屋に一人で閉じ込められ、東京転居後39日間で大家へのあいさつとゴミ出し以外は外出禁止。部屋には電灯がなく、窓の明かりでノートに文字を書いていたといいます。壁には「うそをついたら×」「はをみがいたら〇」などの張り紙が貼られ、反省文の作成も強要されました。
2018年3月2日、結愛ちゃんは自宅で肺炎による敗血症で亡くなりました。遺体には170箇所ものあざや傷があり、虐待の深刻さを物語っていました。事件が明るみに出ると、結愛ちゃんが書いた「もうおねがいゆるして ゆるしてください おねがいします」という心の叫びが報道され、多くの人々の胸を打ちました。

このノートには、「ママ もうパパとママにいわれなくても しっかりとじぶんから きょうよりかもっと あしたはできるようにするから」「もうおねがいゆるして ゆるしてください おねがいします」「ほんとうにもうおなじことはしません ゆるして」「ぜったいやくそくします」など、何度も許しを請う言葉や自分を責める言葉が並びます。5歳の子どもが親に愛されたい、認められたい一心で自分を責め、必死に「いい子」になろうとしていたことが痛いほど伝わってきます。
背景には、雄大被告による母親へのドメスティック・バイオレンス(DV)があり、優里被告は精神的に支配されていたために虐待を止められなかったとされています。また、児童相談所や警察の対応にも課題があり、母親がDV被害者である認識が薄かったことや、一時的に子どもが保護されたにもかかわらず虐待が続いたことが問題視されました。
行政の対応

香川県時代から児童相談所や市町村が複数回介入し、一時保護も実施されましたが、いずれも短期間で解除され、家族は家庭に戻されていました。2018年1月に目黒区に転居した際には、香川県から東京都の児童相談所・子ども家庭支援センターに情報が引き継がれましたが、住民登録の遅れや情報共有の不備もあり、十分な安全確認がなされないまま、結愛ちゃんは家庭で過ごし続けることになりました。行政機関同士の連携不足や、児童相談所の人員・体制の限界も課題として指摘されています。
裁判の詳細

裁判では雄大に対し東京地裁の裁判員裁判で懲役13年の判決が言い渡されました。判決理由では、「虐待はしつけではないことを自覚しながらやめられなかった」と裁判長が厳しく指摘し、雄大が結愛ちゃんに対し、明るく友達の多い理想の子であってほしいと過剰な期待をかけ、食事制限や暴力をエスカレートさせた経緯が詳細に認定されました。検察側は「命を守るための最小限の行動すら取らなかった」と非難し、弁護側は「父親として苦しみや葛藤があった」と主張しましたが、裁判所は「助けるためなら心理的影響を乗り越えることはできた」と述べ、厳しい量刑判断となりました。
優里も保護責任者遺棄致死罪で起訴され、一審で懲役8年の判決を受けました。優里は控訴しましたが、控訴審でも「DVによる精神的支配の影響は認めるが、結愛ちゃんの衰弱は明らかで、母親として助ける行動を取るべきだった」として控訴棄却となり、懲役8年が確定しています。裁判では、優里が雄大からの長時間の説教や精神的DVに支配されていたこと、判断力や行動力が著しく低下していたことも明らかにされました。
法廷では、優里が証人として出廷した際、動揺して号泣し「死にたい。結愛のところに行きたい。どうやって罪を償えばいいか分からない」と涙ながらに語る場面もありました。また、専門家証人からは「DVによる心理的支配が母子の絆を壊した」との指摘もなされました。
船戸雄大の生い立ち

雄大は1985年岡山県生まれで、父親の仕事の関係で関東など各地を転々とし、小学校高学年で北海道札幌市に転居しました。中学時代はバスケットボール部に所属し、運動神経が良く、周囲からは明るく面倒見の良い好青年という印象を持たれていました。しかし、高校ではバスケ部の厳しい練習についていけず退部し、その後は不良グループと付き合うようになった時期もありましたが、無事に卒業しています。
高校卒業後は東京・八王子の帝京大学に進学し、バスケサークルの中心的存在として青春時代を過ごしました。大学卒業後は大手通信会社に就職し、システム開発関連の仕事を担当。しかし、札幌への転勤後は毎朝嘔吐しながら通勤するなど、精神的に追い詰められ、最終的には退職。札幌の繁華街「すすきの」で働いた後、香川県高松市のキャバクラでボーイとして勤務するようになります。
香川で働いていた際に、シングルマザーだった優里と出会い、2015年末から交際を始め、2016年4月に結婚。雄大は「物知りで頼りになる」「家事や育児もできる」と周囲に評され、結婚当初は結愛ちゃんや優里にとって理想的な父親像を目指していたといわれます。実際、結婚当初は結愛ちゃんと仲良く遊び、家族でテーマパークに出かけるなど、周囲からも「子どもを大事にするタイプ」と見られていました。
しかし、雄大は自分の思い描いた「理想の家庭」や「理想の子ども」への執着が強く、次第に結愛ちゃんへのしつけや教育が過剰になっていきます。また、本人は「自分のように辛い思いをさせたくない」「幸せになってほしい」という思いから厳しいしつけをしていたと語っていますが、実際には理不尽な暴力や食事制限、監禁に近い生活を強いていました。背景には、雄大自身の家庭環境(両親の不仲)や、学生時代・社会人時代の挫折、自己肯定感の低さ、プライドの高さといった心理的要素が指摘されています。
船戸優里の生い立ち

優里は、自己肯定感が低く、自分に自信が持てない性格で育ちました。彼女の生い立ちは、幼少期から「自分はバカだ」「誰かに必要とされたい」という思いに強くとらわれていたことが特徴的です。19歳で最初の夫と結婚し、その年に長女・結愛ちゃんを出産しますが、夫は家事や育児に無関心で、優里に対して日常的に「お前はバカだ」「なんでそんなこともできないの?」などと否定的な言葉を投げかけていました。夫婦関係は冷え切り、最終的に離婚。離婚後も元夫は養育費を払わず、逆に金銭をせびりに来ることもありました。
シングルマザーとなった優里は、生活のためにキャバクラで働き始めます。その頃、「自分がたくさん稼いで、性的にも上手になれば元夫が戻ってくるかもしれない」と思い詰めるなど、自己価値を他者の評価や男性からの承認に強く依存していた様子がうかがえます。
事件後に出版された獄中手記『結愛へ 目黒虐待死事件 母の獄中手記』では、DVの恐怖や自責の念、そしてなぜ娘を守れなかったのかという苦悩が赤裸々に綴られています。船戸優里の生い立ちや心理的背景は、児童虐待や家庭内暴力の構造的問題を考える上でも、現代社会に重い問いを投げかけています。
【目黒女児虐待事件】の関連書籍
『結愛へ 目黒区虐待死事件 母の獄中手記』船戸優里

『結愛へ 目黒区虐待死事件 母の獄中手記』は、2018年3月に東京都目黒区で5歳の結愛ちゃんが虐待の末に命を落とした事件を、母親・優里が獄中で綴った手記です。本書は、母親自身が保護責任者遺棄致死罪で懲役8年の実刑判決を受け、刑務所で自分の罪と向き合いながら、なぜ娘の命を守れなかったのか、なぜ夫の暴力を止められなかったのか、なぜ誰にも助けを求めなかったのか――その苦悩と後悔、そして絶望を率直に記録しています。
手記では、夫からの執拗な精神的・身体的DVにより心がすり減り、しつけという名の虐待が日常化していった家庭の崩壊の過程が描かれています。たとえば、「私は正座しながら説教を受け、それが終わると『怒ってくれてありがとう』と言うようになった」「結愛が床に寝転がっていたとき、彼が横から思い切りお腹を蹴り上げた」など、家庭内での支配と恐怖、そして自分自身が“まともな人間ではない”“マイナス100の人間だ”と自己否定に陥っていく様子が赤裸々に語られています。
また、結愛ちゃんがノートに書き残した痛ましい叫びや、やせ衰えた娘を病院に連れて行けなかった理由、過酷な日課や反省文の強要など、事件の背景にあった複雑な家庭環境とDVの実態も詳細につづられています。母親としての責任と、DV被害者としての苦しみ、その両面から「なぜ自分は娘を救えなかったのか」と自問し続ける姿が、読む者に深い問いを投げかけます。
【目黒女児虐待事件】まとめ

『目黒女児虐待事件』は、結愛ちゃんの「もうおねがいゆるして ゆるしてください おねがいします」というノートの言葉が報道されると、社会全体に大きな衝撃と悲しみ、そして怒りが広がりました。SNSやネット上では「なぜ誰も助けられなかったのか」「大人は何をしていたのか」「子どものSOSを見逃してはいけない」といった声が相次ぎ、結愛ちゃんの苦しみや孤独に強く心を痛める意見が目立ちました。
また、「虐待は密室で起きる」「ノートがなければ実態は分からなかった」と、子ども自身による記録が事件の深刻さを伝えたことに言及する声も多く、児童相談所や警察の対応の不十分さ、社会の支援体制の限界に対する批判や反省の声が広がりました。一方で、「親のしつけと虐待の境界線」「DVと虐待の連鎖」「母親も被害者だったのではないか」という複雑な家庭環境への同情や、母親への判決が重すぎるという意見も一部で見られました。
事件をきっかけに、「体罰や暴力は絶対に許されない」「子どもを守るために社会全体で見守るべき」という意識が高まり、東京都では体罰禁止条例が制定されるなど、法改正や制度強化の動きも後押しされました。また、「結愛ちゃんのような子どもを二度と出さないでほしい」「子どもの声にもっと耳を傾けてほしい」といった切実な願いも多く寄せられています。