「大阪2児餓死事件」は、2010年夏、大阪市内のマンションで3歳の女児と1歳9か月の男児が母親による育児放棄(ネグレクト)によって命を落とした、現代日本社会に大きな衝撃を与えた児童虐待事件です。母親は風俗店で働きながら、子どもたちを長期間部屋に置き去りにし、自身は男と遊び回る生活をSNSで発信していました。猛暑の中、幼い姉弟はわずかな食料も尽き、極限の飢えと渇きの中で亡くなっていきました。
この悲劇の全貌と背景を克明に追ったノンフィクションが、杉山春による『ルポ 虐待――大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)です。本書は、事件の経緯だけでなく、母親の生い立ちや貧困、女性の孤立、社会の支援の脆弱さなど、幼児虐待のメカニズムを多角的に掘り下げています。
また、この事件をモデルにした映画『子宮に沈める』も製作され、母子の孤独や社会の無関心、そして救いのなかった現実を重く問いかけています。
【大阪2児餓死事件】について

事件の経緯
下村早苗は20歳で妊娠をきっかけに結婚し、名古屋で新生活を始めましたが、夫の度重なる浮気やすれ違いから夫婦関係は悪化し、やがてシングルマザーとなります。頼れる身内もなく、経済的困窮や孤独、育児の重圧に苦しみながら大阪へ転居し、やがて大阪ミナミの風俗店で働くようになりました。
子どもたちが生まれた当初、早苗は「良い母親になりたい」と強く願い、子育てと仕事の両立に努めていました。しかし離婚や生活苦、孤立感が次第に彼女を追い詰め、夜間勤務や交際相手との関係が深まるなかで、子どもたちの世話が十分にできなくなっていきました。交際相手の多くは風俗店の客やホストクラブのホストで、2010年春ごろからはホストクラブに頻繁に通い、親密な男性との関係が生活の中心となっていきます。
2010年6月上旬、早苗はワンルームマンションの部屋に子どもたちを閉じ込め、粘着テープや南京錠で施錠して外出。その後は交際相手や友人宅、ホテルなどで過ごし、ほとんど帰宅しませんでした。
事件後の供述や証言によれば、長女は母親が帰宅した際に「遅いよママ」と声をかけていたことがありました。飢えと孤独に耐えながらも、幼い姉弟は最後まで母親の帰りを信じて待ち続けていたのです。
姉弟の状況

子どもたちが置かれていた状況は、想像を絶するほど過酷なものでした。母親から十分な食事も水も与えられず、ゴミや糞尿が散乱する不衛生なワンルームの部屋に、姉と弟は閉じ込められていました。最初のうちは、部屋に残されていたわずかな食べ物を分け合いながら、なんとか飢えをしのいでいました。しかし、やがて食料も底をつき、姉は辛子やマヨネーズ、氷の結晶、そうめんの出汁、ゴミの中の残飯やカップ麺の容器の残りなど、口にできそうなものを必死に探して弟にも分け与えていました。
それでも空腹と渇きは日に日に増し、2人は徐々に衰弱していきます。特に弟は、姉が力尽きて亡くなった後、さらに極限状態に追い詰められ、排泄物を食べたり飲んだりしていた形跡が司法解剖で確認されています。姉弟は最後には互いの尿や便までも口にし、姉は食中毒を起こして先に亡くなり、弟もその毒素が含まれた姉の便を口にしたことで、10時間ほど後に死亡したとみられています。
死亡直前には2人とも極度の衰弱状態で、体は痩せ細り、胃や腸にはほとんど何も残っていませんでした。2人は母親の帰りを信じて泣き続け、やがて声も出なくなり、絶望と孤独、空腹と渇きのなかで静かに命を落としたと考えられています。
事件発覚とその後

部屋から異臭が漂い始めたことで近隣住民が通報し、警察が現場に駆けつけた結果、2人の幼いきょうだいの遺体が発見されました。室内は大量のゴミが散乱し、遺体は腐敗が進み、一部は白骨化していたほどでした。検視の結果、死後約50日が経過していたことが判明しています。
警察は遺体発見後、母親の行方を捜索しました。母親は事件発覚前日の7月29日、勤務先の上司から「部屋から異臭がする」と連絡を受け、約50日ぶりに帰宅し、子どもたちの死亡を確認していました。しかし、その後も警察などに通報せず、交際相手とホテルで過ごしていたことが明らかになっています。
逮捕後、早苗は「育児ストレスから逃げたかった」「自分の時間がほしかった」と供述しました。また、裁判の最終意見陳述では涙を流し、「もう一度2人を抱きしめたい」と語る場面もありました。一方で、事件直後や面会では感情を大きく表に出すことは少なく、責任逃れや現実逃避的な側面も見られました。自身の生い立ちや孤立感についても語り、「子育てに悩んでいた」と繰り返しています。
裁判では母親の刑事責任能力が認められ、2012年に大阪地裁は「未必の殺意」を認定し、懲役30年の実刑判決を言い渡しました。
下村早苗の生い立ち

下村早苗は三重県四日市市で、県立高校の教師でラグビー部の名監督だった父と、その教え子でラグビー部マネージャーだった母のもと、三姉妹の長女として生まれました。5歳の頃に両親が離婚し、母親に引き取られましたが、母親は夜間や週末に子どもたちを置き去りにするなど育児放棄を繰り返していました。幼い早苗は「お母さんがいつもいない」と父親に助けを求め、最終的に三姉妹は父親に引き取られます。
父親は教師として多忙な中、シングルファーザーとして娘たちを育てましたが、やがて連れ子のいる女性と再婚します。この義母との関係は非常に複雑で、早苗と妹たちは義母からあからさまな差別を受けていました。たとえば、義母の実子にはナイキの運動靴やディズニーのTシャツが与えられる一方、早苗たちにはワゴンセールの靴や安物の服しか買い与えられなかったといいます。義母は家事や育児に関しても、実子と義理の子で態度を変え、早苗たちは家庭内で精神的な疎外感や孤独感を強く抱くようになりました。
こうした義母からの冷遇や家庭の不安定さもあり、早苗は小学生の頃から精神的なストレスを抱えていました。再婚家庭も長くは続かず、父親は再び離婚。妹たちの世話をしながら育った早苗は、中学生になると家庭の不安定さや孤独感から非行に走り、家出や補導を繰り返すようになります。14歳の時には集団での性被害にも遭い、深い心の傷を負いました。

父親との関係は、表面的には「自慢の娘」として誇りに思う気持ちもあったものの、実際には心の距離がありました。父親はラグビー部の監督として多忙で、家にほとんどいない日々が続き、早苗の心の問題や非行に十分に寄り添うことができていませんでした。学校でのいじめや不登校などの問題が起きた際には、父親は学校に強く抗議するなど娘を守ろうとしたものの、家庭内での信頼関係や安定した居場所を十分に築くことはできませんでした。
また、早苗は思春期以降、父親や教師ともうまく信頼関係を築けず、嘘をついて叱られないように振る舞うことも多かったといいます。父親自身も「早苗の表情がどんどん暗くなり、死んだ魚のような目になった」と振り返り、娘の変化に気づきながらも、どう接していいかわからず苦悩していた様子が伝えられています。
このように、義母からの差別や家庭の不安定さ、親子のすれ違い、十分なケアの欠如が、早苗の孤立や後の事件の背景に大きな影響を与えたと考えられています。
【大阪2児餓死事件】の関連書籍・ノンフィクション
『ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件』杉山春

『ルポ 虐待――大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)は、ジャーナリストの杉山春が大阪2児餓死事件を徹底取材し、その背景を多角的に描き出したノンフィクションです。物語は、接見室で早苗と向き合う場面や、亡くなった子どもたちが重なり合うようにして発見された凄惨な現場の描写から始まります。
本書では、早苗自身の高校時代やラグビー部のマネジャーとして過ごした日々、そしてその後の離婚や理由のない浮気、子どもを放置して家を出てしまう経緯など、彼女の人生がどのようにして孤立と困窮へと向かっていったのかが丁寧に描かれています。
杉山は、早苗個人の責任だけでなく、彼女が抱えていた家庭環境や社会的孤立、女性の貧困、そして現代日本の母子家庭を取り巻く厳しい現実にまで踏み込みます。「これは決して他人事ではない」と読者に問いかけ、帯にも「罵りたい人は罵ればいい。その後で、これが自分に起こりえないか、考えて欲しい」と記されています。事件の奥にある社会の問題を浮き彫りにし、幼児虐待やネグレクトの本質に迫る一冊です。
『子宮に沈める』日本映画

『子宮に沈める』は、2013年に公開された緒方貴臣監督による社会派フィクション映画です。本作は、実際の大阪2児放置死事件をもとに、児童虐待や育児放棄という社会問題に鋭く切り込み、母性神話や現代日本の母親が直面する孤立と困窮の現実を、静かでありながら衝撃的に描いています。
主人公の由希子は「良き母」であろうと懸命に努力し、毎日の長時間労働、資格試験、家事、子育てに追われる日々を送ります。しかし、学歴も職歴もないシングルマザーの彼女は経済的に困窮し、やがて社会から孤立していきます。都会の片隅で、若い母親が孤独に追い詰められ、現実から逃避するようになったとき、子どもたちの悲劇が始まります。
映画は、家庭という密室で母親がどのように追い詰められ、子どもたちがどんな状況に置かれていたのかを、静謐な映像美で描写します。また、母性というものを神話化し、それを社会が女性に押し付ける構造自体が、母親を“子宮に沈める”――すなわち、母性の象徴である子宮という檻に閉じ込めて苦しめているのではないか、という問題提起も込められています。
主演は伊澤恵美子。上映時間は95分です。2023年には児童虐待防止推進月間にあわせてリバイバル上映も行われ、公開から10年が経った今も、多くの人に衝撃と問題提起を与え続けている作品です。
【大阪2児餓死事件】まとめ

「大阪2児餓死事件」は、胸が締めつけられるような痛みと、社会全体への重い問いかけを突きつけられた気持ちになります。この事件は、単に「ひどい母親が子どもを餓死させた」という一言では到底片付けられない、複雑な家庭環境と社会的背景が絡み合った悲劇でした。
幼い姉弟が極限状態で命を落としていく過程、最後には排泄物まで口にしていた事実は、胸が締め付けられます。誰もが「どうして誰も助けられなかったのか」と自問せずにはいられません。
一方で、母親・下村早苗自身も、幼少期から親の愛情や安定した家庭を得られず、義母からの差別や親子のすれ違い、社会的孤立に苦しんできた経緯があります。事件の根底には、虐待やネグレクトが連鎖する家庭環境、支援の網の目からこぼれ落ちる現実、そして「母親だけが全責任を負わされる」日本社会の構造的な問題が浮かび上がります。
この事件を「特別な異常事件」として片付けず、社会全体の課題として受け止め、子どもを守る仕組みや支援のあり方を改めて考え続ける必要がある――その思いを新たにさせられる事件でした。
■子宮に沈める(2013年公開)
ジャンル:ドラマ(95分)
キャスト:伊澤恵美子、土屋希乃、土屋瑛輝
配信サービス:子宮に沈める | Netflix
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