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“遅いよママ”――母を待ち続けた姉弟の最期「大阪2児餓死事件」

ファッション街に建つ事件現場のマンション

大阪2児餓死事件」は、2010年の夏、大阪市内のマンションで発生した極めて痛ましい児童虐待事件です。3歳の女児と1歳9か月の男児が、実母による長期間の育児放棄(ネグレクト)の末、命を落としました。

母親は幼い姉弟を自宅の一室に置き去りにし、自身は外出を繰り返していました。真夏の厳しい暑さの中、子どもたちは限られた食料もやがて尽き、極度の飢えと渇きに苦しみながら、静かに命を落としていったのです。

この悲劇の全貌と背景を克明に追ったノンフィクションが、杉山春による『ルポ 虐待――大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)です。

本書では、事件の経緯だけでなく、母親の生い立ちや貧困、女性の孤立、そして社会の支援体制の脆弱さなど、幼児虐待の根底にある問題を深く掘り下げています。

また、この事件を題材にした映画『子宮に沈める』も制作され、母子の孤独や社会の無関心、そして救いのなかった現実を重く問いかけています。

目次

【大阪2児餓死事件】について

事件の経緯

事件の犠牲者となった桜子ちゃんと楓ちゃん

下村早苗(逮捕当時23歳)は、20歳で妊娠をきっかけに男子大学生と結婚し、名古屋で新たな生活を始めました。結婚当初は家事や育児に熱心に取り組み、母乳や布おむつにこだわるなど、「良い母親になりたい」と強く願っていました。

しかし、2人目の子どもを出産した頃から生活が苦しくなり、夫に隠れて消費者金融から借金を重ねるようになります。

また、早苗自身の不倫や夜遊びも発覚し、夫婦関係は急速に悪化。離婚時には元夫やその家族に対して「借金はしっかり返す」「家族には甘えない」「しっかり働く」といった誓約書を書かされています。

離婚後は頼れる身内もなく、シングルマザーとして経済的困窮と孤独、育児の重圧に苦しみながら大阪へ転居。大阪ミナミの風俗店で働き始めましたが、元夫からの養育費や家族の支援もなく、生活はさらに厳しさを増していきました。

やがて夜間勤務や交際相手との関係が深まる中で、子どもたちの世話が十分にできなくなり、2010年春ごろからはホストクラブに頻繁に通い、親密な男性との関係が生活の中心となっていきました。

2010年6月上旬、早苗はワンルームマンションの部屋に子どもたちを閉じ込め、粘着テープや南京錠で施錠して外出。その後は交際相手や友人宅、ホテルなどで過ごし、ほとんど帰宅しなくなります。

その結果、姉の桜子ちゃん(当時3歳)と弟の楓ちゃん(1歳9か月)は、閉じ込められてから約2~3週間後の6月下旬ごろ、極度の飢えと渇きの中で命を落としました。

姉弟の状況

ゴミが散乱する現場マンションのベランダ

子どもたちが置かれていた状況は、想像を絶するほど過酷なものでした。

母親から十分な食事も水も与えられず、ゴミや糞尿が散乱する不衛生なワンルームの部屋に、姉と弟は閉じ込められていました。最初のうちは、部屋に残されていたわずかな食べ物を分け合いながら、なんとか飢えをしのいでいました。

しかし、やがて食料も底をつき、姉は辛子やマヨネーズ、氷の結晶、そうめんの出汁、ゴミの中の残飯やカップ麺の容器の残りなど、口にできそうなものを必死に探して弟にも分け与えていました。

それでも空腹と渇きは日に日に増し、2人は徐々に衰弱していきます。やがて姉弟は、極限状態の中で互いの尿や便までも口にするようになり、姉は食中毒を起こして先に命を落としました。

弟もまた、姉の便を口にしたことで毒素が体内に入り、約10時間後に亡くなったと考えられています。

死亡直前には2人とも極度の衰弱状態で、体は痩せ細り、胃や腸にはほとんど何も残っていませんでした。2人は母親の帰りを信じて泣き続け、やがて声も出なくなり、絶望と孤独、そして耐え難い空腹と渇きの中で、静かに命を落としたと推察されています。

事件発覚と裁判

早苗の供述内容

部屋から異臭が漂い始めたことをきっかけに、近隣住民が通報し、警察が現場に駆けつけた結果、2人の幼いきょうだいの遺体が発見されました。

室内は大量のゴミが散乱し、遺体は著しく腐敗し、一部は白骨化していたほどでした。検視の結果、死後約50日が経過していたことが明らかになっています。

警察は遺体発見後、母親の行方を捜索。母親は事件発覚前日の7月29日、勤務先の上司から「部屋から異臭がする」と連絡を受け、帰宅して子どもたちの死亡を確認していました。

しかし、その後も警察などに通報せず、交際相手とホテルで過ごしていたことが判明しています。

逮捕後、早苗は「育児ストレスから逃げたかった」「自分の時間がほしかった」と供述しています。また、裁判の最終意見陳述では涙を流し、「もう一度2人を抱きしめたい」と語る場面もありました。

一方で、事件直後や面会では感情を大きく表に出すことは少なく、責任逃れや現実逃避的な態度も見受けられました。自身の生い立ちや孤立感についても語り、「子育てに悩んでいた」と繰り返しています。

事件後の供述によれば、長女は母親が帰宅した際に「遅いよママ」と声をかけていたことがあり、飢えと孤独に耐えながらも、幼い姉弟は最後まで母親の帰りを信じて待ち続けていたとされています。

裁判では母親の刑事責任能力が認められ、2012年に大阪地裁は「未必の殺意」を認定し、懲役30年の実刑判決を言い渡しました。

下村早苗の生い立ち

風俗店勤務時代の早苗

早苗は三重県四日市市で、県立高校の教師でラグビー部の名監督として知られる父と、その教え子でラグビー部マネージャーだった母のもと、三姉妹の長女として生まれました。

5歳のときに両親が離婚し、最初は母親に引き取られましたが、母親は夜間や週末に子どもたちを置き去りにするなど、育児放棄を繰り返していました。

幼い早苗は「お母さんがいつもいない」と父親に助けを求め、最終的に三姉妹は父親に引き取られます。

父親は教師として多忙な中、シングルファーザーとして娘たちを育てましたが、やがて連れ子のいる女性と再婚。しかし、この義母との関係は複雑で、早苗たち三姉妹は義母からあからさまな差別を受けていました。

たとえば、義母の実子にはナイキの運動靴やディズニーのTシャツなどが与えられる一方、早苗たちにはワゴンセールの靴や安物の服しか買い与えられなかったといいます。

寝る時や外出時も義母は連れ子とだけ行動し、早苗たちは常に疎外感を味わっていたとされています。

こうした家庭の不安定さや義母からの冷遇もあり、早苗は小学生の頃から精神的なストレスを抱えていました。再婚家庭も長くは続かず、父親は再び離婚。

中学の卒業写真

妹たちの世話をしながら育った早苗は、中学生になると家庭の不安定さや孤独感から非行に走り、家出や補導を繰り返すようになります。

髪を染めて繁華街に出入りし、バイクを乗り回して補導されたり、遊ぶお金欲しさに援助交際に手を出したこともありました。14歳の時には知人の男子らによる集団での性被害にも遭い、深い心の傷を負いました。

父親はラグビー部の監督として多忙で家を空けることが多く、早苗の心の問題や非行に十分に寄り添うことができませんでした。

学校でいじめや不登校などの問題が起きた際には、父親は学校に強く抗議するなど娘を守ろうとしたものの、家庭内での信頼関係や安定した居場所を築くことはできませんでした。

思春期以降、早苗は父親や教師とも十分な信頼関係を築けず、嘘をついて叱られないように振る舞うことも多かったといいます。

父親自身も「早苗の表情がどんどん暗くなり、死んだ魚のような目になった」と振り返り、娘の変化に気づきながらも、どう接していいかわからず苦悩していた様子が伝えられています。

【大阪2児餓死事件】の関連書籍・ノンフィクション

『ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件』杉山 春

ルポ 虐待――大阪二児置き去り死事件』(ちくま新書)は、ジャーナリストの杉山春が大阪2児餓死事件を徹底取材し、その背景を多角的に描いたノンフィクションです。

物語は、接見室で早苗と向き合う場面や、亡くなった子どもたちが重なり合うようにして発見された凄惨な現場の描写から始まります。

本書では、早苗の高校時代から始まり、離婚や理由のない浮気、子どもを放置して家を出るまでの経緯など、彼女がどのように孤立と困窮に追い込まれていったのかが丁寧に描かれています。

杉山は、早苗個人の責任だけでなく、彼女が抱えていた家庭環境や社会的孤立、女性の貧困、そして現代日本の母子家庭を取り巻く厳しい現実にも踏み込みます。

帯には「罵りたい人は罵ればいい。その後で、これが自分に起こりえないか、考えて欲しい」と記されており、「これは決して他人事ではない」と読者に問いかけます。
事件の奥に潜む社会の問題を浮き彫りにし、幼児虐待やネグレクトの本質に迫る一冊です。

『子宮に沈める』日本映画

『子宮に沈める』は、緒方貴臣監督による2013年公開の社会派フィクション映画です。主演は伊澤恵美子で、本編時間は95分。

本作は、実際に起きた大阪2児放置死事件を題材に、児童虐待や育児放棄といった社会問題に鋭く切り込みます。

夫に一方的に別れを告げられた主人公・由希子が、幼い2人の子どもとアパートで新生活を始め、長時間の労働や資格試験、家事・子育てに追われながらも“良き母”であろうと努力します。

しかし、学歴も職歴もないシングルマザーは経済的困窮や社会的孤立に直面し、やがて追い詰められていきます。

映画は、家庭という密室で母親がどのように孤立し、子どもたちがどんな状況に置かれていたのかを、静謐で衝撃的な映像美で描き出します。

また、「母性」というものが神話化され、社会が女性にそれを押し付ける構造こそが、母親を“子宮に沈める”――すなわち母性という檻に閉じ込めて苦しめているのではないか、という問題提起も込められています。

2023年には児童虐待防止推進月間に合わせてリバイバル上映も行われ、公開から10年が経った今も、多くの人に衝撃と問題提起を与え続けている作品です。

【大阪2児餓死事件】まとめ

『大阪2児餓死事件』は、胸が締めつけられるような痛みと、社会全体への重い問いかけを突きつける事件です。

幼い姉弟が極限状態で命を落とし、最後には排泄物まで口にしていたという事実は、誰もが「どうして誰も助けられなかったのか」と自問せずにはいられません。

しかし、この事件は決して「ひどい母親が子どもを餓死させた」という一言で片付けられるものではありません。そこには、複雑な家庭環境や社会的背景が深く絡み合っています。

母親・早苗自身もまた、幼少期から親の愛情や安定した家庭を得られず、義母からの差別や親子のすれ違い、社会的孤立に苦しんできた過去があります。

事件の根底には、虐待やネグレクトが連鎖する家庭環境、支援の網の目からこぼれ落ちる現実、そして「母親だけが全責任を負わされる」日本社会の構造的な問題が浮かび上がります。

この事件を「特別な異常事件」として片付けるのではなく、社会全体の課題として受け止め、子どもを守る仕組みや支援のあり方を改めて考え続ける必要がある――そう強く感じさせられる事件です。

■子宮に沈める(2013年公開)
ジャンル:ドラマ(95分)
キャスト:伊澤恵美子、土屋希乃、土屋瑛輝
配信サービス:子宮に沈める | Netflix
子宮に沈める(邦画 / 2013) – 動画配信 | U-NEXT 31日間無料トライアル

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