2018年1月、滋賀県守山市で発生した「滋賀医科大学生母親殺害事件」は、親子の絆や教育のあり方、そして家庭という密室が生み出す闇を社会に突きつけました。娘・桐生のぞみは、幼い頃から母親の過剰な期待と厳しい教育、暴言や暴力に苦しみ、ついには母親を殺害し遺体を損壊・遺棄するという凄惨な事件へと至ります。
この事件の背景や母娘の壮絶な関係、そして現代日本が抱える「教育虐待」の実態を、ノンフィクション『母という呪縛 娘という牢獄』(齊藤彩著)は克明に描き出しました。本記事では、事件の経緯と裁判の様子、そして本書が問いかける親子関係の本質について詳しく解説します。
【滋賀医科大学生母親殺害事件】について

事件の経緯
事件は、母親による長年にわたる教育虐待が引き金となった悲劇でした。加害者の桐生のぞみは、小学生の頃から母親に「医師になること」を強く求められ、成績が期待に届かないときは暴力や過酷な仕打ちを受けていました。たとえば、小学校6年生の時には成績が悪かったことを理由に母親が包丁を持ち出して揉み合いになり、上腕を切られたこともありました。中学2年生の時には、テストの点数を改ざんしたことが発覚し、母親は熱湯をコップに入れて娘の太ももにかけ、皮膚がただれるほどのやけどを負わせました。
さらに、母親は日常的に「何でこんなことも分からないの」「バカ」「嘘つき」と怒鳴り、のぞみを罵倒していました。就寝や起床時間、日々の予定まで逐一報告させるなど、生活全般を厳しく管理し、娘の自由を徹底的に奪っていました。高校時代も虐待は続き、志望校の偏差値に届かないと「足りない分だけ殴る」として殴打されることもありました。のぞみが家出を試みた際には、母親が探偵を雇って連れ戻すなど、徹底した監視と支配が続きました。
こうした日々の中で、のぞみは9年間も医学部受験を強いられ、浪人生活を続けましたが、合格できませんでした。2014年、ようやく医学部を諦めて滋賀医科大学の看護学科に進学しますが、母親は今度は助産師になることを強要。助産師学校の受験に失敗すると、激しく罵倒しました。
事件直前には、のぞみがスマートフォンを隠し持っていたことが発覚し、母親はそれを取り上げて叩き壊し、のぞみに土下座して謝罪させ、その様子を動画で撮影するという屈辱的な行為も行いました。また、「国試が終われば、あんたは間違いなく裏切る。母はニべもなく放り出される。だから母はあんたに復讐の覚悟を決めなければならない」「死ね!」など、激しい罵倒や攻撃的なメールを繰り返し送りつけていました。
のぞみは事件前からSNS上で「母親の顔を見るだけで吐き気がする」「家に帰りたくない」「母親の支配から逃れたい」など、母親との関係や日々の苦しみを吐露するツイートを繰り返していました。さらに「今日もまた怒鳴られた」「死にたいけど死ねない」「助けてほしい」といった精神的に追い詰められた心情も投稿しています。

また、同級生や恩師のインタビューからも、母親の強い支配下で孤立していた実態が明らかになっています。恩師は「進路の三者面談で、担任が医学部志望の厳しさを伝え志望校変更を提案したが、母親は強く反発し、娘も母親の意向を絶対に覆せない様子だった」と証言しています。同級生も「母親の話になると急に表情が曇り、時折涙ぐむこともあった」「何かに怯えているような雰囲気だった」と振り返っており、彼女がどれほど母親の支配や圧力に苦しめられていたかが伝わってきます。
そして2018年1月の深夜、のぞみは眠っていた母親の寝室に包丁を持って入り、母親の首を複数回刺して殺害しました。殺害後、遺体を浴室に運び、のこぎりなどを使って頭部・両腕・両脚を切断し、体幹部と分けました。体幹部は自宅近くの野洲川河川敷に運び遺棄し、頭部や手足などの部位はごみ袋に入れて家庭ごみとして処分しました。

殺害直後、Twitterに「モンスターを倒した。これで一安心だ。」と投稿し、長年の虐待や支配からの解放感と安堵を示しています。その後ホームセンターで工具を購入し遺体を解体、体幹部は河川敷に遺棄し、頭部と四肢は焼却ゴミとして処分。母親のスマートフォンを使い、友人や父親に「生存を偽装するLINE」を送り、発覚を遅らせようとしました。
母親を殺害後は、日常生活を装いながら、しばらくの間ふつうに暮らしていました。大学を卒業し、2018年2月には看護師国家試験を受験して合格、4月からは滋賀県内の病院で看護師として勤務を始めています。警察の聞き込みに対しては「母と2人暮らし」と答えたり、「母は別のところにいる」と説明を変えるなど、事件の発覚を免れようと振る舞っていました。
発覚と裁判

2018年3月10日、滋賀県守山市の野洲川河川敷で、両手・両足・頭部を切断された体幹部だけの遺体が発見されたことから事件は発覚しました。遺体は激しく腐敗しており、当初は人間のものかどうかも判別が難しい状態でしたが、警察は身元特定のために周辺住民の聞き込みや防犯カメラの解析を進めました。
その結果、現場近くに住む母娘二人暮らしの家庭が浮上します。母親は1月中旬以降、近所のスーパーなどで姿を見せておらず、娘であるのぞみは警察の聞き取りに「母と2人暮らし」と答えたものの、後に「母は別のところにいる」と説明を変えたため、警察は不審を強めました。
5月17日、DNA鑑定の結果から遺体が母親であることが判明し、6月5日にのぞみは死体遺棄容疑で逮捕されました。さらに捜査が進む中で、死体損壊や殺人の容疑でも再逮捕・起訴されることになります。
取り調べでのぞみは当初「母が助産師学校の受験に落ちたことを悲観し、突発的に自分の首に包丁を当てて自殺した」と主張し続けましたが、警察は供述の不自然さや状況証拠から納得せず、徹底的な追及を続けました。やがてのぞみは「母から解放され、自分の人生を生きるために殺した」と動機を明かすに至ります。
事件後ものぞみは大学を卒業し、看護師国家試験に合格して病院で勤務していましたが、逮捕直前までその事実を隠し通していたことも社会に大きな衝撃を与えました。
裁判では、母親による長年の教育虐待や精神的圧力が明らかにされ、被告人であるのぞみが受けてきた過酷な家庭環境が詳しく語られました。最終的に裁判所は、被告人の置かれていた状況や動機を考慮しつつも、殺人と死体損壊・遺棄の罪は重大であるとして懲役10年の判決を言い渡しました。
【滋賀医科大学生母親殺害事件】の関連書籍
『母という呪縛 娘という牢獄』齊藤彩

『母という呪縛 娘という牢獄』(齊藤彩/講談社)は、公判を取材し続けた女性記者が、拘置所や刑務所で面会を重ね、膨大な往復書簡を交わしながら、事件の真相と母娘の心の奥底に迫った記録です。
本書では、20代中盤まで風呂にも一緒に入るほど濃密だった母娘の関係が、なぜ殺人という最悪の結末を迎えたのかを、本人や父親、周囲の証言、そして記者自身の視点も交えて描写。獄中では、同囚や他の「母」との対話、父親との再会を通じて、自分の人生や母親との関係を見つめ直していきます。
教育虐待や親子の共依存、母親のアイデンティティの歪み、そして密室化した家庭で追い詰められた娘の苦悩が胸に迫る一冊です。
【滋賀医科大学生母親殺害事件】まとめ

この事件は、滋賀医科大学の学生であった桐生のぞみが、長年にわたり母親から受けてきた過酷な教育虐待と精神的支配の末に母親を殺害し、遺体を損壊・遺棄したという、現代社会に大きな衝撃を与えた事件です。
事件直前には、SNS上でも自らの苦しみや葛藤を断片的に吐露しており、外部に助けを求めることもできないまま、精神的に極限状態に追い込まれていました。そして2018年1月、ついに母親を殺害し、遺体を解体・遺棄するという凄惨な行動に至ります。
この事件は、親子関係のあり方や教育虐待、過度な期待と支配が子どもに与える深刻な影響について、社会全体に大きな問題提起を残しました。同様の苦しみを抱える人々からも共感や議論が広がり、教育や家庭、そして支援の在り方を見直すきっかけとなっています。親の「愛情」や「期待」が時に暴力や呪縛となり、子どもの人生や心を深く傷つけてしまう現実を、私たちはこの事件から真剣に考え直さなければなりません。