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【戦慄】切断された頭部と“犯行声明文”神戸連続児童殺傷事件の衝撃

神戸連続児童殺傷事件で遺体が発見された友が丘中学校正門前

神戸連続児童殺傷事件」は、1997年2月から5月にかけて兵庫県神戸市須磨区で発生した、当時14歳の少年による連続児童殺傷事件です。

加害者は「酒鬼薔薇聖斗(さかきばら せいと)」と名乗り、5人の小学生を次々と襲撃し、2人を殺害、3人に重軽傷を負わせました。

特に、被害男児の頭部を中学校の正門前に遺棄し、犯行声明文を添えるという残虐な手口は、社会に大きな衝撃と恐怖を与えました。

この事件は「酒鬼薔薇事件」とも呼ばれ、少年犯罪や少年法のあり方、加害者の更生、被害者遺族の苦しみなど、さまざまな社会的議論を巻き起こしました。

事件の衝撃とその後の波紋は、数多くの書籍や証言として記録されています。被害者の父親による手記『』、加害者本人が事件の真相や心情を綴った『絶歌』、そして加害者の母親が苦悩と葛藤を明かした『少年A この子を生んで』などは、事件の深層や関係者の心の傷、社会への問いかけを今もなお伝え続けています。

本記事では、事件の経過や動機、加害者の生い立ち、そして事件が社会に与えた影響や今も続く課題について、これらの書籍も参照しながら多角的に解説します。

目次

【神戸連続児童殺傷事件】について

事件を大きく報じた当時の新聞紙面

事件の経過

第一の事件
第一の事件は、2月10日午後4時頃、兵庫県神戸市須磨区の路上で発生しました。被害者は市立南落合小学校に通う小学6年生の女児2人(いずれも当時12歳)でした。

この日、東慎一郎(以下、少年A、当時14歳)はゴム製のショックレスハンマー(金槌)を用い、女児2人の後頭部を次々と殴りつけました。1人は全治1週間の重傷、もう1人も暴行を受けましたが、幸い命に別状はありませんでした。

事件後、被害女児の父親は娘から「犯人はブレザーを着て学生鞄を持っていた」と聞き、近隣の中学校に生徒の写真を見せてほしいと要望しましたが、学校側は警察を通すように求めて拒否しました。

そのため父親は警察に被害届を出し、生徒写真の閲覧を再度要求しましたが、結局開示されることはありませんでした。

この対応については、後に「この時点で何らかの対応をしていれば第二・第三の事件は防げたのではないか」「結果的に犯人を庇っていたことになる」との批判が学校側に寄せられました。

第二の事件
第二の事件は、3月16日に神戸市須磨区の公園で発生しました。少年Aは、公園で遊んでいた小学4年生の女児に「手を洗える場所はないか」と声をかけ、女児は親切心から学校まで案内しました。

その後、「お礼を言いたいのでこっちを向いてください」と言い、女児が振り返った瞬間、八角げんのう(金槌の一種)で頭部を強打しました。女児は意識不明の重体となり、3月23日に脳挫傷で亡くなりました。

さらに同じ日、別の小学3年生の女児の腹部を刃渡り13センチの小刀で刺しました。刃は胃を貫通し、背中の静脈の手前で止まっており、もし静脈まで達していれば命を落としていた可能性もありました。

女児は大量出血と重傷を負いましたが、一命を取り留め、手術では1.8リットルの輸血が必要でした。

第三の事件
第三の事件は、5月24日に発生しました。この日、少年Aは、神戸市須磨区にある市立多井畑小学校付近の路上で、同校6年生の土師淳くん(当時11歳)と偶然出会いました。

少年Aは淳くんを須磨区友が丘9丁目の「タンク山」山頂にあったケーブルテレビ中継アンテナ基地付近まで誘い出し、午後2時ごろ、自分の履いていた運動靴の紐を使って首を絞め、淳くんを殺害しました。

その後、翌25日の午後1時から3時ごろにかけて、基地内で遺体を頭部と胴体に切断し、胴体部分は基地局舎の床下に、頭部は自宅に持ち帰りました。

そして5月27日未明、切断した淳くんの頭部を、自身が通う友が丘中学校の正門前に遺棄しました。

頭部の口の中には「酒鬼薔薇聖斗」と名乗る赤インクの犯行声明文が挟まれており、その残虐さと異常性、社会や警察への挑発的な態度が全国に大きな衝撃を与えました。

犯行声明文と動機

少年Aが残した犯行声明文

犯行声明文(淳くんの口に挟まれていた文書)
積年の大怨に流血の裁きをわざわざ切断した頭部を中学校の正門に放置するなどという行動はとらないであろう。やろうと思えば誰にも気づかれずにひっそりと殺人を楽しむ事もできたのである。ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない。

だが単に復讐するだけなら、今まで背負っていた重荷を下ろすだけで、何も得ることができない。そこでぼくは、世界でただ一人ぼくと同じ透明な存在である友人に相談してみたのである。すると彼は、「みじめでなく価値ある復讐をしたいのであれば、君の趣味でもあり存在理由でもありまた目的でもある殺人を交えて復讐をゲームとして楽しみ、君の趣味を殺人から復讐へと変えていけばいいのですよ、そうすれば得るものも失うものもなく、それ以上でもなければそれ以下でもない君だけの新しい世界を作っていけると思いますよ。」その言葉につき動かされるようにしてボクは今回の殺人ゲームを開始した。

しかし今となっても何故ボクが殺しが好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性としか言いようがないのである。殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。

最後に一言――この紙に書いた文でおおよそ理解して頂けたとは思うが、ボクは自分自身の存在に対して人並み以上の執着心を持っている。よって自分の名が読み違えられたり、自分の存在が汚される事には我慢ならないのである。今現在の警察の動きをうかがうと、どう見ても内心では面倒臭がっているのに、わざとらしくそれを誤魔化しているようにしか思えないのである。ボクの存在をもみ消そうとしているのではないのかね。

ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。だから警察も命をかけろとまでは言わないが、もっと怒りと執念を持ってぼくを追跡したまえ。今後一度でもボクの名を読み違えたり、またしらけさせるような事があれば一週間に三つの野菜を壊します。ボクが子供しか殺せない幼稚な犯罪者と思ったら大間違いである。

—- ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている —-

さあゲームの始まりです 愚鈍な警察諸君 ボクを止めてみたまえ ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくて見たくてしょうがない 汚い野菜共には死の制裁を

この事件の動機については、「加害行為による性的な興奮を得るため」であったとされています。

少年は小学生の頃から動物虐待を繰り返し、解剖を楽しむうちに次第に「人を殺害してみたい」という欲望を抱くようになったことが明らかになっています。

犯行当日、少年は「人を殺したい」という衝動を抑えきれず、自転車で家を出て偶然出会った淳くんを標的に選び、首を絞めて殺害したとされています。

また、犯行声明文で「自分の存在を世間にアピールするため」「透明な存在である自分を認めてほしい」「義務教育や社会への復讐」といった動機も語っており、自己顕示欲や社会への敵意も背景にあったとみられます。

逮捕の経緯

警察は、少年Aが動物虐待を繰り返していたことや、被害男児と顔見知りであったことから早い段階で疑いを強めていましたが、加害者が中学生であったため捜査は慎重に進められました。

少年Aが逮捕されたのは1997年6月28日の早朝で、家族全員がまだ眠っていたところに警察が訪れ、両親も突然のことで状況を理解できていなかったと伝えられています。

警察は静かに玄関から入り、「息子さんに話を聞きたい」と告げて逮捕に至りました。

事件後、少年法の改正が進み、刑事罰の対象年齢が16歳から14歳に引き下げられるなど、少年犯罪に対する法的対応が強化されました。

少年Aの生い立ち

元少年Aこと東慎一郎

少年A(東慎一郎)は、1982年に兵庫県神戸市で生まれ、3人兄弟の長男として育ちました。家庭環境は複雑で、母親からは非常に厳しいしつけを受けていたことが裁判などで明らかになっています。

母親は生後10か月で離乳を強行し、排泄や食事、着替え、遊びに至るまでスパルタ的な教育を施していたとされ、幼少期の愛着形成に問題があった可能性が指摘されています。

一方で、母親からの愛情が不足していた分、祖母からは溺愛されて育ったとされます。しかし、小学5年生の時に祖母が亡くなり、精神的な支えを失ったことで、心のバランスが崩れ始めたとみられています。

家庭内では母親に強い恐怖心を抱き、父親や弟たちとの関係も円滑とは言えませんでした。小学生の頃から動物虐待を繰り返すなどの異常行動が見られ、学校生活でも表情が乏しく、教員の顔を見ない、言葉が届かない、風変わりな行動が多いといった特徴が指摘されていました。

中学校は神戸市立友が丘中学校に通い、事件当時は中学3年生でした。入学当初から問題行動が見られ、学校側は両親に精神科受診を促していたといいます。

また、少年Aは逮捕後、約3ヶ月ぶりに両親と面会した際、面会時間中ずっと両親を睨みつけ、「帰れ!ブタ野郎!」と怒鳴り続けていたことが報告されています。

少年Aの家族

神戸市須磨区にあった少年Aの実家

父親は仕事で多忙な人で、家庭では息子に無関心な面が強く、少年Aがナイフや斧を所持していたり、猫の死骸を家の軒下に隠していたことにも特に注意を払わなかったとされています。

また、休日も家族と過ごすことは少なく、ゴルフなど自分の時間を優先していたようです。事件発覚時も「寝耳に水だった」と語っています。

母親は非常に厳しいスパルタ式のしつけを行い、体罰も日常的にあったといわれています。

弟たちと比較して「勉強ができない」「トロい」など自尊心を傷つける発言も多く、少年Aは母親から愛されていない、虐待されていると感じていたようです。

また、母親は理想の母親像を演じることに執着し、几帳面な性格だったともいわれています。弟は2人おり、上の弟とは1歳差、下の弟とは3歳差です。母親は4年間で3人の子供を出産しています。

祖母(母方)は少年Aを溺愛しており、母親からの厳しいしつけや体罰から逃れるため、彼はよく祖母の部屋に身を寄せていたとされています。

事件後、家族はマスコミや世間の目から逃れるために実家を離れ、父母は一時的に離婚したとされています。

少年Aのその後

人混みに紛れ、電車に乗る“元少年A”

少年Aは、事件の重大性と深刻な心理的問題を踏まえ、通常の少年院ではなく専門性の高い医療少年院に収容されました。

更生過程では、担当の女性法務教官が“母親代わり”となり、日々の生活指導やカウンセリングを通じて心のケアや信頼関係の構築に努めました。

その結果、少年Aは当初の警戒心や孤立感から徐々に自分の過去や罪、家族への思いを語るようになったとされています。

しかし矯正教育の中でも、「いくら遺族の手記を読んでも、薬を飲んでも、治らないんだよ。僕は性格が異常なんだから」と周囲に話すなど、内面の葛藤や自身の異常性を自覚している様子も見られました。また、自傷行為や奇行も報告されています。

社会復帰後、週刊誌のカメラに捉えられた“元少年A”

約6年半の矯正教育を経て、2004年3月に仮退院し、21歳で社会復帰しました。仮退院後は更生保護施設や里親夫婦のもとで保護観察を受けながら生活し、2005年に正式退院しています。

その後は職を転々としながらも再犯はなく、社会の中で身元を隠して暮らしているとみられています。

2015年には手記『絶歌』を出版し、同年に公式ホームページ「存在の耐えられない透明さ」を開設。

その後、有料ブログやコンテンツ配信も開始し、自身への質問に答える有料ブロマガ「元少年Aの“Q&少年A”」なども運営しましたが、社会的な批判や議論を呼び、ブログは後に運営元によって凍結されています。

2016年には、週刊文春の記者が東京都内のアパートで元少年Aに直撃取材を試みた際、「命がけで来てんだろ? お前、顔覚えたぞ!」と威嚇し、その後約1キロにわたって記者を追いかけたと報じられています。

【神戸連続児童殺傷事件】の関連書籍

『淳』 土師 守

』は、1997年に発生した神戸連続児童殺傷事件で命を奪われた被害男児の父親、土師守さんによる手記です。

事件の被害者遺族としての視点から、息子の成長、事件当時の混乱、そして少年法改正に至るまでの闘いを詳細に描いています。

「おじいちゃんのとこ、いってくるわ」と家を出た息子・淳くんとの永遠の別れから始まり、家族がどのように事件を受け止め、苦しみ、社会や法制度と向き合ってきたかを、父親の目線で綴っています。

さらに本書には、少年Aの親についても触れられています。犯人が近所の子であり、淳さんが少年Aの家に遊びに行っていたこと、行方不明時には少年Aの母親が土師家を訪ねてきていたことなど、加害者家族と被害者家族の接点や、その後の加害者家族の対応についても記述があります。

『淳』は、被害者遺族が「命」と「社会」に問いかける鎮魂の記録であり、事件を風化させないための貴重な証言となっています。

『絶歌 神戸連続児童殺傷事件』元少年A

絶歌 神戸連続児童殺傷事件』は、「元少年A」が、自らの手で事件に至る経緯や犯行後の心境、社会復帰までの過程を綴った手記です。

本書は、加害者本人が18年の沈黙を破り、自分の過去と向き合いながら「なぜあのような事件を起こしたのか」「事件後どのように生きてきたのか」を赤裸々に記述したものです。

内容は、幼少期から事件に至るまでの心の揺れや家庭環境、精神的な葛藤、事件発生時の心理、そして少年院・更生保護施設での生活や社会復帰後の苦悩にまで及びます。

出版は遺族の了承を得ずに行われたため大きな社会的議論と批判を呼びましたが、出版社側は「本人の内面を抉り出し、事件の原因を本人の言葉で描いたものであり、深刻な少年犯罪を考える上で社会的意義がある」としています。

『少年Aこの子を生んで: 父と母悔恨の手記』少年Aの父母

少年A この子を生んで:父と母 悔恨の手記』は、「少年A」の両親が自らの子育てと事件前後の家族の姿、心情を赤裸々に綴った手記です。

逮捕当日まで我が子の犯行を全く想像できなかった両親が、「私たち親はどこで、何を、間違えたのか?」という深い悔恨と自問を込めて執筆したものであり、母親の育児日誌や父親の日記を中心に、14年間の少年Aとの暮らしや事件直後の家族の混乱、社会からの非難、そして加害者家族としての苦悩が克明に記録されています。

本書の特徴的な点として、母親が世間で語られている「厳しいしつけ」や「スパルタ教育」について自ら否定していることが挙げられます。

母親は少年Aに対して体罰や過度な叱責を加えたことはなく、むしろ愛情をもって子育てをしてきたと主張し、「普通の母親として、必要な注意やしつけはしてきたが、それが虐待や過剰な厳しさだったとは思わない」と記しています。

少年Aの家庭は一見平凡で愛情深いものだったと両親は振り返っていますが、母親の几帳面さや早期からの厳格な教育姿勢が少年Aにどのような影響を与えたのかについては、読者の間でも評価が分かれるかもしれません。

本書は出版当時大きな反響を呼び、ノンフィクション部門のベストセラーとなりました。印税は全額、事件の被害者および遺族への賠償に充てられています。

【神戸連続児童殺傷事件】まとめ

逮捕後、警察車両で移送される“少年A”

「神戸連続児童殺傷事件」は、その残虐性と加害者が当時14歳という若さ、さらに社会に対する強烈な挑発性によって、日本中に大きな衝撃を与えた事件です。

この事件をきっかけに、少年法の厳罰化や被害者支援制度の整備など、社会制度にも大きな変化がもたらされましたが、再発防止という観点では今なお多くの課題が残されています。

事件は、少年犯罪や家庭環境、社会の対応、そして「心の闇」とは何かという根源的な問いを、今も私たちに突きつけています。

被害者遺族の「同じ悲しみを繰り返さないでほしい」という願いを決して風化させず、社会全体で学び続けるべき事件です。

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