1999年10月26日、埼玉県桶川市で21歳の女子大学生・猪野詩織さんが元交際相手らにより殺害された「桶川ストーカー殺人事件」は、日本社会にストーカー犯罪の深刻さと警察の対応の限界を突きつけた事件です。
詩織さんは長期間にわたり執拗な嫌がらせや脅迫を受け、家族とともに何度も警察に相談していましたが、警察は「恋愛のもつれ」として十分な対応を取らず、悲劇を防ぐことができませんでした。
事件後、遺族は社会に向けて「もう一つの遺言」とも言える強いメッセージを発し続けています。ノンフィクション作品『桶川ストーカー殺人事件―遺言』では、被害者と遺族の苦悩、警察の不作為、そして事件が社会にもたらした波紋が克明に描かれています。
この事件は、警察不祥事や報道被害の問題も浮き彫りにし、2000年にはストーカー規制法が成立するなど、日本の法制度や社会意識に大きな変化をもたらしました。
【桶川ストーカー殺人事件】について

事件の経緯
発端
被害者である女子大学生・猪野詩織さん(当時21歳)は1999年1月ごろから元交際相手・小松和人(当時27歳、以下A)と交際を始めましたが、Aの暴力や執拗な束縛に悩み、別れを切り出します。
交際中、Aは詩織さんに対し一方的に高価なプレゼントを贈り、それを拒否されると暴力を振るいました。特に、Aのマンションを訪れた際、室内に隠しカメラが仕掛けられているのを詩織さんが発見し問いただすと、Aは逆上し、詩織さんを壁際に追い詰めて壁を殴りつけ、「俺に逆らうのか。今までプレゼントした洋服代として100万円払え。払えないならソープで働いて金を作れ。今からお前の親の所に行くぞ。俺との付き合いのことを全部ばらすぞ」と怒鳴りつけました。この出来事以降、詩織さんは「交際を断れば殺されるかもしれない」という強い恐怖心を抱くようになりました。
また、Aは頻繁に詩織さんの携帯電話に連絡し、30分おきに電話をかけるなどして行動を監視・束縛しました。詩織さんが電話に出ないと自宅や友人にも連絡し、犬の散歩をしていると伝えると「俺より犬のほうが大事なのか。その犬を殺すぞ」と脅すなど、日常的に精神的な圧迫や脅迫を繰り返しました。Aは詩織さんが教えていない番号も興信所を使って調べ上げ、さらなる監視を強めていきました。
このような暴力や束縛に耐えかねた詩織さんが別れを切り出すと、Aはこれを逆恨みし、ストーカー行為を開始。Aの兄・小松武史(当時32歳、風俗店経営者、以下B)やその関係者も加わり、詩織さんや家族への嫌がらせがエスカレートしていきました。

嫌がらせの内容
Aは、詩織さんや家族の自宅に無言電話や脅迫電話を執拗にかけ続けました。電話では「かわいい弟がいるんだよな」と家族をほのめかして脅したり、「てめぇが悪いんじゃねーかよ」などと詩織さん本人を罵倒する暴言を浴びせ、精神的なプレッシャーを与え続けていました。この脅迫や罵倒の音声は実際に録音されており、詩織さんや家族は日常的に恐怖と不安にさらされていました。
さらにAやB、関係者たちは、詩織さんの自宅や父親の勤務先に直接押しかけ、「誠意を示せ」などと詰め寄ったり、玄関先で大声を出して威圧するなど、面前での威圧的な嫌がらせも繰り返しました。
1999年7月13日未明には、詩織さんの顔写真や実名、誹謗中傷の言葉を記載したビラが自宅や大学、父親の勤務先の敷地内などに数百枚ばらまかれました。ビラの内容は目を覆いたくなるほど悪質で、詩織さんを社会的に貶めるものでした。実行犯はチーマー風の若い男2人とみられ、近隣住民や大学関係者にも被害が及びました。
8月には父親の勤務先などに約790通もの中傷文書が送りつけられ、家族や職場にも大きな精神的ダメージを与えました。
また、Aやその仲間は詩織さんの自宅周辺を徘徊したり、行動を監視するなどのストーカー行為も繰り返し、詩織さんは「常に見張られている」「殺されるかもしれない」と強い恐怖の中で生活を余儀なくされていました。
このように、Aとそのグループによる嫌がらせは、電話や直接の威圧、ビラや文書による社会的中傷、徘徊や監視など、多角的かつ悪質なもので、詩織さんと家族の日常生活を徹底的に脅かしました。

警察への相談と対応
詩織さんと家族は、Aによるしつこいストーカーや嫌がらせに悩み、何度も警察に相談しました。しかし警察は「恋愛のもつれ」「男女の問題」として深刻に受け止めず、「これは事件にならない」「警察は立ち入れない」と言って、被害届をなかなか受け取らず、加害者への警告や事情聴取、身辺警護なども行いませんでした。
警察内部では、被害届や告訴を出させないようにしたり、書類の内容を書き換えたりすることもあったとされています。事件当日も詩織さんの母親を現場で長時間待たせたり、娘の死亡をすぐに伝えなかったりと、遺族への対応も十分ではありませんでした。
事件後の警察の記者会見では、埼玉県警の幹部が「警察としてもできる限りのことはした」と説明し、対応の遅れや不備を認めませんでした。

さらに、警察は記者クラブを通じて「被害者はブランド品好きだった」「風俗店で働いていた」など、詩織さんのイメージを悪くする情報を流し、事件の背景に被害者側にも問題があったかのような印象を社会に与えました。実際、事件直後に現場の捜査員が「これは風俗嬢のB級事件だ」と新聞記者に話していたという証言もあります。この「風俗勤務」情報は、警察や一部メディアが流したもので、詩織さんや遺族を貶める虚偽の噂でした。実際には詩織さんは大学生であり、風俗店で働いていたという証拠や事実は一切ありません。
こうした警察のずさんな対応が大きな社会問題となり、事件後、埼玉県警では15人が処分され、うち3人は懲戒免職となりました。この事件をきっかけに、2000年にはストーカー規制法ができ、警察の対応や被害者を守る仕組みが大きく見直されました。

殺害計画と実行
詩織さんがAからのプレゼントを返送した1999年6月22日、Aは逆恨みを強め、Bに被害者の殺害を依頼しました。Bは風俗店店長で元暴力団組員の久保田祥史(以下C)らに2000万円の報酬を提示し、殺害計画が本格化します。Aは自らのアリバイ工作のため沖縄県に滞在し、実行資金2000万円をBに預け、その一部は中傷ビラ作成費用に使われました。
犯行グループは10月18日に一度拉致を計画しましたが未遂に終わり、10月25日に現場の下見を経て、翌26日に計画を実行します。
1999年10月26日午前8時ごろ、殺害実行役のC、輸送役のD、見張り役のEは池袋に集合し、2台の車に分乗して桶川市に向かいました。Eが詩織さんの動向を確認し、CとDは桶川駅へ移動。駅近くのデパート周辺でCが車を降りる際、Dは「太ももを切りつけてくれ」「大ごとにならないよう太ももを狙ってくれ」と声をかけましたが、Cは「お約束できません」と返答しています。
午後0時53分ごろ、大学へ向かうため桶川駅西口前の商業施設「マイン」前で自転車を停めた詩織さんは、背後からCにナイフで右背部を突き刺されました。驚いて振り返った詩織さんは、さらに左前胸部も刺され、悲鳴を上げてその場に倒れました。Cはそのまま現場から逃走し、目撃者が「ひったくり」と叫んだため、付近の店主がCを追いかけましたが、取り逃がしました。
詩織さんは上尾中央総合病院に搬送されましたが、午後1時30分に死亡が確認されました。死因は肺損傷による大量出血性ショック死で、死亡推定時刻は事件発生直後の午後0時50分とされています。
この計画的な殺害には、元交際相手A、主犯格の兄B、殺害実行犯C、輸送役D、見張り役Eの5人が関与していました。

事件後、Aは警察による名誉毀損容疑での全国指名手配を受けて逃亡していましたが、2000年1月27日、北海道の屈斜路湖で水死体となって発見され、警察により自殺と断定されました。Aは2通の遺書を残しており(1通は実家に郵送、もう1通は遺品のバッグから発見)、いずれも被害者と家族、マスコミへの怨嗟や自身の冤罪を主張する内容が記されていました。また、家族には事前にかけていた生命保険金を老後資金として役立ててほしいという言葉も残していました。Aの名誉毀損容疑については、被疑者死亡のため不起訴処分となり、刑事責任を問われることはありませんでした。

事件の影響とその後
桶川ストーカー殺人事件は、警察の対応の不備やストーカー犯罪の深刻さを社会に突きつけ、日本の法制度や被害者支援体制に大きな変化をもたらしました。事件後、被害者遺族は再発防止を訴え続け、社会の関心が高まりました。
刑事裁判と判決
事件の首謀者であるBや殺害実行犯ら4人は、殺人や名誉毀損などの罪で起訴されました。裁判では、Bが無罪を主張したものの、地裁は2003年12月に無期懲役を言い渡し、他の実行犯にも懲役18年や懲役15年の実刑判決が下され、2006年に全員の刑が確定しました。また、民事訴訟では遺族側が勝訴し、Bやその両親ら4人に計1億566万円の支払いが命じられています。さらに、警察の捜査怠慢に対する国家賠償請求訴訟でも、警察の名誉毀損事件の捜査怠慢が認められ、埼玉県に賠償が命じられましたが、殺人との直接的な因果関係は認められませんでした。
報道と社会的議論
事件当初、警察発表に依存した報道が多く、被害者や遺族に対する心ない報道や誤った情報も流布されました。後に写真週刊誌やテレビの調査報道によって警察の怠慢や事件の真相が明らかになり、報道倫理や被害者の尊厳を守る必要性が強く議論されました。事件は、報道機関の在り方や被害者支援の重要性にも大きな影響を与え、社会全体でストーカー犯罪とその対策についての意識改革が進みました。
【桶川ストーカー殺人事件】の関連書籍
『桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫) 』清水潔

『桶川ストーカー殺人事件―遺言』は、写真週刊誌『FOCUS』記者・清水潔によるノンフィクションで、1999年に埼玉県桶川市で起きた女子大生ストーカー殺人事件の真相と、被害者・猪野詩織さんの「遺言」、そして警察の不正や社会の問題点を徹底的に追及した作品です。
本書の「遺言」とは、単なる被害者の最後の言葉ではなく、詩織さんが生前、友人たちに「私が殺されたら犯人はA(元交際相手)」と繰り返し伝えていた事実、そして「自分は本当に殺されるかもしれない」という強い危機感を託した“生きた証言”を指します。詩織さんは、ストーカー被害の深刻さや命の危険を感じながらも、警察に何度も相談し、家族や友人にも「助けてほしい」「警察はもう頼りにならない」と訴えていました。しかし警察は「男女の痴話げんか」などと取り合わず、告訴状の改ざんや捜査怠慢によって、詩織さんの訴えは無視され続けました。
清水潔記者は、詩織さんの友人たちから「詩織はAと警察に殺されたんです」「私が殺されたら犯人はA、って」と直接聞き取り、詩織さんの“遺言”を世に伝えることに執念を燃やしました。本書では、迷宮入りになりかけた事件の真相を、記者が独自の取材で解き明かし、警察の腐敗や報道の問題点、被害者遺族の苦しみまでを克明に描いています。
『桶川ストーカー殺人事件―遺言』は、詩織さんが命をかけて残した「自分が殺されたらAが犯人」という強いメッセージと、それを無視した社会や警察の責任、そして事件を通じて今も語り継がれる教訓を、ノンフィクションの力で社会に問いかけた一冊です。
【桶川ストーカー殺人事件】まとめ

『桶川ストーカー殺人事件』は、ストーカー犯罪の恐ろしさと警察の対応不備が社会問題として浮き彫りになった、決して風化させてはならない事件です。被害者である猪野詩織さんが、「警察はもう頼りにならない」と友人に漏らしていた事実は、あまりにも痛ましく、警察の責任は極めて重いと感じます。
この事件がきっかけとなってストーカー規制法が制定され、社会全体で被害者の命を守る仕組みづくりが進みましたが、ストーカー犯罪や警察の初動対応の課題は今もなお残されています。詩織さんの「遺言」は、私たちが二度と同じ過ちを繰り返さないために、被害者の声を真摯に受け止め、命を守るための行動を社会全体で考え続ける必要があることを強く訴えています。事件を知るたび、無念の思いとともに、社会が本当に学び、変わる覚悟を持たなければならないと痛感します。